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ペテロとユダの対比 - 張ダビデ牧師

 

1. ペテロとユダの対比:重生体験の必要性ヨハネの福音書13章を見ると、イエス様の十二弟子の中でもペテロとユダが鮮明に対比される様子が描かれています。ペテロもユダも、共にイエス様の側近として行動を共にし、主の行跡や奇跡、教えを常に目の当たりにしていた人物でした。しかし、結果的には、一人は主を裏切ったにもかかわらず悔い改めて新しい道を歩むことができ、もう一人は最後まで悔い改めず自殺を選んでしまい、取り返しのつかない罪の道に落ちてしまいました。この対比は、信仰生活を送るすべての人々に非常に重要な挑戦と教訓を与えます。張ダビデ牧師は、この対照的な物語が現代の信仰者に「必ず重生しなければならない」というメッセージを力強く投げかけていると強調します。なぜなら、この二人が同じようにイエス様を「裏切った」事実に変わりはないものの、最終的に一人は悔い改めて戻り、もう一人は戻らなかったという、正反対の結末をもたらしたからです。この二人の差を決定づけた要因は、まさに重生体験、つまり「沐浴をしたかどうか」という視点でも理解することができます。

イエス様が弟子たちの足を洗われたとき、ペテロは最初それを激しく拒否しました。「主が弟子の足を洗うなどとんでもない。弟子である私が主のご苦労を受けるなど、ありえない」という思いだったのでしょう。しかしイエス様は「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と関係がない」とおっしゃいました。するとペテロは「それなら足だけでなく、頭も体もすべて洗ってください」と態度を変えます。するとイエス様は「すでに沐浴した者は足だけを洗えば十分だ」と言われます。これは、ペテロがすでにイエス様の血潮の力と真理のことば、そして主の愛によって「根本的な清め」を受けた者であることを示しています。すなわち、根本的な救いの体験、すなわち重生の体験がペテロのうちにすでにあったという意味です。たとえ彼が弱さのゆえにイエス様を三度も否定するという大きな罪を犯したとしても、心の奥深くには主の愛を覚えていて、それを握りしめていたので、最終的に悔い改めて戻ることができたのです。ここで張ダビデ牧師は「罪を犯さないことも大事だが、それ以上に大切なのは、罪を犯したときに悔い改めて立ち返る姿勢だ」と何度も強調します。私たちが罪から救われて神の子どもとされたという重生の確信があるとき、たとえつまずいても再び立ち上がることができ、罪を犯したとしても心から悔いて主のもとへ走っていくことが可能になります。

一方ユダは、イエス様を「銀貨三十枚で売り渡した」という、歴史上もっとも恥ずべき悲劇的な裏切りの場面を残します。聖書を見ると、ペテロも同じく主を裏切った(3度の否認)にもかかわらず、彼が再び立ち返ったのに対し、ユダは自分の裏切りを償うことができず、自殺に至ります。なぜこのような差が生じたのでしょうか。その理由として指摘されるのが、ユダには真の重生体験がなかったという点です。彼はイエス様が示された癒しや奇跡、御言葉、そして「最後まで愛される」イエス様の御品性を常にそばで見ていたにもかかわらず、それらを真心から自分の魂に受け入れることがありませんでした。彼の内には自己中心的な欲望、金銭と権力への執着、またはイエス様を政治的メシアとしてしか見ない歪んだ視点が根深くあり、罪を犯した後も真の悔い改めに立ち返るのではなく、絶望と自己放棄へと突き進んでしまったのです。張ダビデ牧師はこの点を非常に残念なこととして指摘します。「イエス様のそばにいたからといって、主の御言葉を聞き、奇跡を目撃したからといって、自動的に救われるわけではない。本当の救いとは、結局、主の愛を自分の魂の奥深くまで受け入れ、『自分が死んで再び生まれる』重生の体験へと進むところで成し遂げられるのだ。」ユダはその道に入りきれず、むしろ自殺という極端な方法で、自らの罪悪感と恥を解決しようとしました。しかしそれは決して解決策にならず、恐ろしい霊的破滅へと至るしかなかったのです。

このように、二人は同じくイエス様を否定したという点では共通していますが、最終的には、一人は驚くべき悔い改めの働きを通して主の赦しを体験し、残された生涯を通して福音を伝える偉大な使徒として生きました。他方、一人は自分自身さえも赦せない絶望に陥り、自ら命を絶ってしまったのです。結局、ペテロとユダの違いは、根本的には重生体験があるかないか、言い換えれば主の愛を知り、その愛の中で自分を捨てて新しく生まれ変わったかどうかに帰結します。張ダビデ牧師はペテロの生涯を通して、次のような事実を学ぶべきだと教えています。「人間は本来弱い存在であり、たとえ"筆頭弟子"という肩書を持つペテロでさえ主を否むこともあり得る。しかし『すでに沐浴した者』、すなわち重生によって根本的に清められた者には、その罪から立ち返る道が開かれている。そして主はいつもその道を開いて待っておられる。これこそペテロが私たちに示している希望である。」

また、ローマ人への手紙8章1節では「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と宣言しています。これは主のうちにあって重生した者が得る驚くべき身分の変化、すなわち「私はもはや罪人として裁かれるのではなく、神の子どもとして恵みを受ける者となった」という事実です。さらにローマ8章31節から39節では、いかなるものも私たちをキリストの愛から引き離すことはできないと強調しています。ここで張ダビデ牧師は次のように語ります。「ペテロが主を否んだときでさえ、主は彼を見捨てなかった。ペテロ自身は主のもとへ出る顔もなかったが、主は復活後、自らペテロを探し求め、『あなたは私を愛するか』と問いかけて彼の愛の告白を引き出された。主はこのように、私たちの弱さにもかかわらず、最後まで愛をもって支えてくださる。たとえ私たちがつまずいて倒れたとしても、仮にユダのような大きな罪を犯したとしても、私たちの中心が主へと向かいさえすれば、主は受け入れてくださるお方だ。」しかし問題は、自分の犯した罪や失敗があまりにも大きいため、「主はもう受け入れてはくださらないだろう」と思い込み、ついに悔い改めの道を諦めてしまう人々の姿勢にあります。これはサタンの最大の欺きの一つです。サタンはいつも罪を犯した人に「お前はもう終わりだ、今さら戻れない」と責め立てます。しかしペテロは主の愛のうちに再びその愛を握り締め、ユダは自らその道を断ち切りました。その差が最後の運命を分けたのです。

重生とは、ヨハネの福音書3章に登場するニコデモとイエス様の対話からわかるように「新しく生まれること」です。ニコデモはユダヤ人指導者として宗教的背景があり、聖書の知識や律法についても人並み以上に備えていたはずです。しかしイエス様は彼に「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。このときニコデモは意味がわからず、「人はどうやってもう一度生まれることができましょうか。年老いているのに母の胎内に入って再び生まれ出ることができるでしょうか」と尋ねます。イエス様は「水と御霊によって生まれなければならない」とはっきり仰せになりました。これは単に肉体的な再誕生を指すのではなく、霊の根本的な変化、すなわち罪から離れてきよめられ、聖霊の力によって新たな存在となる「霊的再誕生」を意味します。イエス様が足を洗われた出来事と合わせて考えてみると、水で洗われるということは罪に対する徹底した裁きと方向転換を象徴し、同時に御霊によって新しく生まれるということは、私たちの心の深い部分から真理が生き働く人生、すなわち私たちの内に愛が満ちあふれる生き方を指します。張ダビデ牧師はこれを「罪によって汚染された魂が真理の御霊、すなわち聖霊に完全にとらえられ、新しい人へと変化すること」と定義しています。

聖書の至るところに「死んでこそ再び生きる」という原理が繰り返し登場します。十字架と復活はキリスト教信仰の核心的真理です。十字架なしに復活はありえず、死を経ずには再び生きることは起こりません。イエス様は神としての「本質」を持ちながらも、しもべの姿をとって十字架の死を通して人類を罪から救われました(ピリピ2章5-8節)。そしてその結果、復活の栄光にあずかったのです。イエス様でさえ、死を通過することで復活に至られたという事実は、私たちが重生体験をする過程においても「私たちの自己が徹底的に死ななければならない」という原理を示しています。ペテロも、パウロも、初代教会の多くの信仰者たちも、この過程を通過しました。パウロはガラテヤ2章20節で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白しています。自らの義や熱心、自己確信に満ちていた彼がダマスコ途上でイエス・キリストと出会い、完全に別人へと変えられたのです。張ダビデ牧師は「パウロのように、以前の『自分』が死に、イエス様が私の内に実際に生きてくださるという体験があってこそ、真の重生が可能となる」と力説します。

ユダはこの「死のプロセス」を最後まで拒否した代表例だと言えます。3年以上もイエス様に密着して従い、奇跡や教えを直接目にしていたにもかかわらず、自分の中にある欲や利己心を捨てることができませんでした。さらには、「なぜこの貴重な香油を浪費するのか。これを売って貧しい人を助けられないのか」(ヨハネ12章参照)と言って、表向きは正しいことを言っているようで、実際は金銭袋を預かっていた彼がそこから利益を得ようとする貪欲があったのです。イエス様を銀貨三十枚で売り渡す行為そのものが、彼がどれほど自分の欲望に囚われていたかをはっきりと示しています。そしてその結果、自らの罪責感と絶望に押しつぶされ、自殺という最悪の道へと踏み込んでしまいました。

それでは今日、私たちはペテロのように重生の体験を持っているのか、それともユダのように頭ではイエスを知っているかのようで、実際には主の愛と力をまったく内面に取り入れていない状態なのか、自分自身を点検する必要があります。張ダビデ牧師は、信仰生活が長くても、あるいは教会でさまざまな役職を担っていても重生体験がはっきりせず、いつも揺れ動く人たちを見ながら次のように語ります。「表向きはクリスチャンであっても、実際にはイエス様とまったく親しい交わりをしていない場合がどれほど多いことか。そういう人たちは罪を犯したときに即座に主のもとへ立ち返り、悔い改めて赦しを受けるのではなく、自分で落胆したり、あるいは偽善によって罪を隠そうとして、より深い霊的泥沼に陥ってしまう。」それゆえ「必ず重生体験をする必要があり、主の愛がどれほど深く広いかを実際に経験しなければならない」と言うのです。

「主の愛」という言葉は、一見使い古された表現に聞こえるかもしれません。しかし、その愛を本当に存在のすべてで体験するとき、私たちの魂は根底から変わらざるをえません。ペテロが泣き崩れて悔い改めたとき、彼は自分の罪を深く悟ると同時に、主が自分を絶対に見捨てないという事実を知りました。その事実が彼を再び立ち上がらせたのです。主を裏切ったとしても、再び立ち返ることができる道は「主がなお私を愛してくださっている」という確信から生まれます。ユダはこの愛を信じられず、自分の罪の重さに押しつぶされ、悔い改めすらできませんでした。現代の私たちにもこの違いは等しく表れます。いくら長く教会に通い、教会活動に熱心であっても、主の愛を信じてその懐に飛び込む勇気がなければ、私たちはいつでもユダのような道を歩む可能性があります。一方、真の重生によって主の愛を深く悟った人は、たとえ罪を犯したとしても、常に新たに悔い改め、「足を洗う」過程を通して主との関係を回復するのです。

張ダビデ牧師は「罪そのものが問題なのではなく、罪を犯した後にどう対応するかが肝心だ。すべての人間はアダムの堕落以降、罪の本性を持っており、信仰が篤いと評判の者でもつまずく可能性がある。大切なのは、つまずいたままで留まるのか、それとも再び悔い改めて主の赦しを求め、人生を新しくするのか、その点にかかっている」と繰り返し強調します。このように、ペテロとユダの対比は、私たちに重生体験がどれほど決定的な意味を持つかを示しています。「すでに沐浴した者」、つまり主の血潮と愛によって根本的に清められた者は、「足だけ洗えばいい」というのは、言い換えれば罪を犯したときに素早く悔い改めて主に立ち返ればいい、ということです。ところが「まだ沐浴していない者」、すなわち主の愛を体験しておらず、自分を捨て切れていない状態にとどまる人は、罪に直面したとき自暴自棄になり、取り返しのつかない道を歩んでしまう危険が大きいのです。だからこそ私たちは自分自身に問うべきです。「私は本当に主に出会ったのか。主の愛が私の魂の深いところにまで染みわたり、私は死に、イエス様によって新たに生きる体験をしているのか。」これがなければ、どんなに長く信仰生活をしていても、いつかユダと同じ道に迷い込む可能性があります。そしてこれを防ぐために、私たちは常に「イエス様のもとへ立ち返るなら、どのような罪でも赦され、新しくされる」という真理を覚えていなければなりません。

結局、「ペテロとユダの対比」が私たちに示す核心メッセージは、外面的な信仰行為ではなく、内面の深い部分で「主の愛にとらえられ、私が死んで再び生まれる重生体験があるかどうか」が決定的分岐点だということです。そしてその重生体験があるとき、私たちは罪を犯しても悔い改めて主のもとへ戻る力と勇気を得ることができます。もしその重生体験がなければ、最終的にユダのように絶望の道を突き進んでしまう可能性が高いのです。張ダビデ牧師はこれを指して「重生体験の有無が信仰の生死を分ける」とまで語っています。このように、ペテロとユダが示すあからさまな対照は、まさに今日の私たちにも切実に当てはまります。たとえ教会にいくら近くあっても、イエス様の教えをいくらたくさん聞いていても、決して重生体験なく形だけの信仰に留まることを警戒しなければなりません。そして本当に主の愛を「自分の愛」として受け入れることにより、どんな罪の鎖も断ち切り、どんな裏切りの傷も悔い改めによって回復できる道を歩まねばなりません。

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2. 重生の実際前述のように、ヨハネの福音書3章のニコデモの物語は、重生の必要性とその実体についてイエス様ご自身が直接語られたものであり、非常に重要な位置を占めています。イエス様はニコデモに「誰でも水と御霊によって生まれなければ神の国を見ることはできない」と宣言されました。これは「水のバプテスマ」と「御霊のバプテスマ」の両方が必要であることを意味しており、ここで水のバプテスマは罪を裁き清める神の義と、罪を断ち切ると決断する人間の悔い改めを象徴し、御霊のバプテスマは私たちの魂の奥深くに実際に働いて、心と思いまでも新しくされる神の力を象徴しています。張ダビデ牧師はこれを「重生とは人間の力でできることではなく、ただ神の恵みと聖霊の力によって可能となる奇跡のような出来事だ」と教えています。

旧約時代から水は、清めと裁きを同時に象徴してきました。たとえば、ノアの洪水は人類の罪を裁く手段であると同時に、義なるノアの家族を新たに建て上げる出発点でもありました。出エジプト記の紅海の出来事もまた、エジプトの軍勢は水の中に沈み裁きを受け、イスラエルの民はその水をくぐり抜けて新しい自由の地へと向かうことができました。こうした象徴的意味は、バプテスマのヨハネが民に水のバプテスマをほどこす際、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と叫び、「やがて来られる方は聖霊と火でバプテスマをお授けになる」と預言したこと(マタイ3章)へとつながります。これはイエス様が来られて私たちの罪を根本的に洗い清め、さらに聖霊によって私たちを重生させてくださるという前兆でした。

では現実的に、この「水と御霊によって生まれる体験」はどのように起こるのでしょうか。張ダビデ牧師はここで「真の悔い改めと自己否定」が重要だと語ります。水のバプテスマは、自分が罪人であることを認め、これからは罪の道を離れて義の道を歩むと決心する表現です。ですから、その過程で必ず徹底的な悔い改めが伴わなければなりません。単に罪悪感に浸り涙を流すだけでは悔い改めではなく、「自分が罪人であることを認め、もう二度とその罪の道を選ばない」という決意にまで至らなくてはなりません。これが水のバプテスマが意味するところです。実際、ペテロが五旬節の聖霊降臨後、人々に福音を語ったときも「悔い改めなさい。そしてそれぞれイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪の赦しを得なさい。そうすれば聖霊の賜物を受けるでしょう」(使徒2章38節参照)と勧めました。つまり水のバプテスマ(罪の赦し)と聖霊の賜物(聖霊のバプテスマ)は一緒に結びついているのです。聖霊のバプテスマは、私たちの内面の深い部分で起こる根本的な変化です。聖霊は「真理の御霊」です。聖霊は私たちに真理を悟らせ(ヨハネ14章、16章参照)、私たちの内にイエス・キリストの生き方と御品性が再現されるよう助けてくださいます。張ダビデ牧師はこれを「主の愛が実際に私の内に注がれ、私が以前とはまったく違う人間になる体験」と説明します。重生を単に「私はイエスを救い主として信じているから救われた」と頭の中で信じるだけではなく、実際の生活の場で罪を遠ざけ、愛を実践し、偽りを捨てて真理に従う形で変化することを指すのです。これが「水と御霊による重生」の実際です。

多くの人が教会に通いながらも、この重生の働きがあいまいな状態のまま留まるのはなぜでしょうか。張ダビデ牧師はその理由を「中途半端な悔い改め」あるいは「片方だけの福音理解」にあると見ています。ある人は罪を犯した後に一時的に涙を流したり心に刺さる思いを持ったりしても、しばらく時間が経つとまた元に戻ってしまいます。これは真の悔い改めではなく、聖霊の力を求めない状態です。水のバプテスマが罪の赦しに対する決意を意味するなら、聖霊のバプテスマはその決意を実際に成し遂げる力を与えてくださる神の力を指します。ですから重生の完全なプロセスのためには、徹底した悔い改めとともに聖霊を切に慕い求め、「主よ、私はこの罪を断ち切る力がありません。ただ聖霊様が私の内に働いてくださらなければなりません」と心から祈り求めなければなりません。そうするとき、聖霊は私たちの心を変えてくださり、新しい願いと聖なるものを求める心を与えてくださいます。このプロセスを通じて、私たちは以前は愛せなかった人を愛するようになり、許せなかった状況を許せるようになり、偽りの言葉や行動を捨てていくという実際的な変化を経験するのです。

張ダビデ牧師は、ここで「愛こそが真理の核心であり、聖霊の働きによって結ばれる中心的な実」であると語ります。イエス様が律法のすべての戒めを愛に要約されたように、聖霊によって重生した人は最終的に愛の人へと変えられていきます。それは人間的な愛、すなわち条件的で利己的な愛を超えて、主が示してくださる無条件で犠牲的な愛に変えられることを意味します。ペテロがイエス様を三度否定したにもかかわらず、最後には殉教の場にまで至ることができた原動力は、主の愛に対する確信であり、その愛が彼の存在そのものを変えたからです。ユダはこの愛を受け入れられず、自分の罪の重みによって自分を断罪してしまいました。

重生は一度きりの体験で一生自動的に維持される状態ではなく、罪と戦い、悔い改め、聖霊の導きを求める過程を通じてますます深まっていきます。張ダビデ牧師はこの点を強く強調し、「私たちは重生後もなお罪に負けることがあり、この世でサタンの誘惑を受ける可能性がある。しかし重生体験を通して根本的に『私はすでに主のものであり、私の内に聖霊がおられる』というアイデンティティが明確になると、罪を犯したときも以前のようにそのまま座り込んで絶望するのではなく、即座に悔い改めて立ち返り、『足を洗う』過程を通して主との関係を回復できるようになる」と語ります。実際、使徒ヨハネも「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1章9節参照)と言っています。これは重生した者の生涯においても、悔い改めと赦しの働きが続いていくことを示しています。一度沐浴(根本的に清められる)した者は、その後歩みの中で足に付く埃は洗えばいいというイエス様の御言葉は、まさにこのダイナミックな関係を示唆しているのです。すでに救われた者であっても、人生の中で罪によって汚れた部分を洗わなければならず、そのたびごとに主は私たちを拒絶せずに受け入れてくださるということです。

ここで最も重要なのは、最後まで主の愛と赦しを信頼し、主のもとに戻る姿勢です。ペテロのように大きな罪を犯しても、主の御心を知り重生の実際を味わっている者は、最終的には悔悟と回復へと進むことができます。ユダが辿った道とは、「自分が犯した罪があまりにも大きいから、主が決して私を赦してくださるはずがない」という思い込みによって、主のもとに戻ることを自ら断念するところから始まっています。しかし主の愛は私たちが想像する限界をはるかに超えています。聖書は「私たちがまだ罪人であったときにキリストが私たちのために死なれたことによって」(ローマ5章8節)主の愛が確証されたと語ります。主はご自分のいのちまでも差し出して私たちを愛してくださったのですから、一体どんな罪がその愛を断ち切ることができるでしょうか。ローマ8章38-39節でパウロは「私は確信しています。死も命も...どんな被造物も、私たちを主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできない」と述べています。この御言葉は重生した者に与えられる最大の慰めであり希望です。

それでは具体的に私たちはどうすればこの愛を握りしめて生きることができるでしょうか。張ダビデ牧師は「御言葉の黙想」と「祈り」、そして「共同体の中での愛の実践」を強調します。第一に、御言葉の黙想を通して私たちは常に主が私たちに与えてくださった愛の大きさを思い起こすことになります。聖書は神のラブレターであり、イエス・キリストを通して示された救いの物語に満ちています。罪人である私たちのために十字架にかかられた主の犠牲をいつも心に刻むことは、重生後の生活を維持し成長させる上で重要な要素です。第二に、祈りを通して私たちは聖霊と交わり、日々私たちの古い自己が死に、主の御品性が生きるよう助けを求めるべきです。聖霊は真理の御霊であり、私たちの弱さを助けてくださるお方なので、祈りの中で聖霊が働かれるとき、罪に打ち勝ち愛を実践する力が湧き上がります。第三に、教会の共同体の中で実際にほかの兄弟姉妹を愛し、仕える生き方こそが、重生の実を結んでいくプロセスです。ペテロも、パウロも、共同体の中で御言葉を分かち合い、互いに励まし合い祈ることで、福音を全世界に証しする働き人へと成長していきました。もし一人きりでの信仰生活にとどまり、自分の力だけで進もうとするならば、誘惑に簡単に揺さぶられ、つまずいたときに再び立ち上がれず終わってしまう可能性が高いのです。ですから私たちは、主が与えてくださった共同体を大切にし、互いに愛し合いながら共に成長していく必要があります。

もちろん重生した後でも、私たちは依然として人間的な弱さや罪の本性を抱えているゆえに失敗することがあります。しかし重生の確信は「私はもはやサタンの虜ではなく、主のうちにあって悔い改め、新しく出発できる」という信仰を与えます。これがユダとペテロの決定的な違いでした。ユダには悔い改めて戻る自信も勇気もありませんでしたが、ペテロは主の愛を信頼したので再び立ち返ることができました。張ダビデ牧師は、これこそ「神の愛を実際に体験した人と、そうでない人の差」だと説明します。実際、教会内を見回しても、一度大きな罪を犯してしまった後に、結局戻れなくなって信仰を捨ててしまうケースがあります。しかし重生を体験し、主の愛が心に確かに刻まれている人は、大きな罪を犯したとしてもそこで終わらず、再び立ち上がったときにむしろもっと強い信仰へと成長する場合が多いのです。なぜなら、罪の赦しの恵みをさらに深く味わい、主の恵みとあわれみを実際に知るようになるからです。

結局、「水と御霊によって生まれる」ということは、単なる教理的知識や信仰の形式的儀式を言うのではなく、実際に私たちの人生全体を変革する強力な出来事です。以前は憎しみや恨みしかなかった人を許せるようになり、世の欲や富を追い求めていた価値観が人生の目標でなくなり、利己的に生きていた心に犠牲的な愛が芽生えるのです。そして何よりも、罪を犯したときすぐに悔い改めて主の赦しを受けられるという希望、その道がいつでも開かれているという事実が私たちを支えてくれます。

張ダビデ牧師はこのような重生の実際を語りながら、「神様の前で徹底的に死ぬ人だけが、本当の意味で再び生きることができる」と繰り返し述べます。「十字架なくして復活なし」ということです。人間は本来、自分を捨てることを嫌い、何でも自分の力で解決しようとします。しかし私たちが本当に主の前にすべてを委ね、「私は何もできません。ただ主だけが私を新しくしてくださるのです」と告白するときに、初めて聖霊が働いてくださり、私たちを新しい被造物へと作り変えてくださるのです。その結果、かつて抱えていた自己中心的な欲や罪の習慣が少しずつ破られ、真理のうちで主と共に歩む喜びを味わうようになります。同時に、重生後であってもつまずく可能性はありますが、そのたびに「足だけを洗う」悔い改めを経て、主との関係を日々新しくすることができるようになります。

最終的に、ユダとペテロ、さらにニコデモとイエス様の対話、そしてパウロの劇的な回心など、すべての事例が私たちに一つの事実をはっきりと告げています。「人間は罪を犯さずにはいられない弱い存在だが、主の愛と聖霊の力が私たちの内に臨むとき、私たちは新しい人として生まれ変わり、罪の中にあっても再び立ち返る道が開かれる。」これこそが福音であり、まさに重生の実際的な意味なのです。そしてこの道を歩むとき、私たちはもはや罪の奴隷ではなく、神の子どもとして自由と喜び、そして主がくださる永遠の希望を抱くようになります。

張ダビデ牧師は「結局、結論は愛である。主の十字架が示したあの愛が私たちを悔い改めへ導き、私たちを新しくする。その愛を私のものとして受け入れ、魂の奥深いところから変化が始まるとき、それが重生なのだ」と強調します。私たちが罪に染まり失敗や落胆に陥っているときでも、主の愛を否定しない限り、いつでもまた立ち上がることができます。水と御霊によって生まれるとは、私の古い人が十字架につけられ、今は私の内にキリストが生きておられる状態へと移行することです。そうなるとき、私たちの罪や過ちも、その都度「足を洗う」悔い改めを通して乗り越え、主との親密な交わりを享受できるのです。

まとめると、重生の実際とは、ヨハネ3章をはじめとする多くの聖書箇所に示された「水と御霊によって生まれなければならない」というイエス様の教えを、具体的にどのように理解し、生活に適用するかという部分です。水のバプテスマは罪に対する裁きときよめを象徴し、聖霊のバプテスマは私たちの内面を完全に変革する神の力を象徴します。これら二つが同時に作用するとき、私たちは初めて重生の実際を味わい、ペテロのように主に従って生きる大胆さと、罪を悔い改めたあとの回復を経験するのです。ユダのような道をたどらないためにも、常に主の愛を思い起こし、その愛によって沐浴し、その愛のうちにとどまる必要があります。これこそ張ダビデ牧師が強調する「真の重生体験」であり、私たちすべてが目指すべき信仰の旅路なのです。

ペテロとユダの対比から学ぶ教訓、そしてヨハネ3章の「水と御霊による新生」を通じて明かされる重生体験の実際を総合してみると、信仰の本質は結局「主の愛を真に受け入れ、自分を徹底的に否定してイエス・キリストにあって新しいいのちへと生まれ変わったのか」にかかっています。そしてその道を歩む人は、つまずくたびに悔い改めて、主の赦しによってさらに成熟した信仰へと成長していきます。私たちは本来弱い存在ですが、主の愛と聖霊の力は完全です。その完全さのうちにとどまるとき、私たちは決して罪に定められることがなく(ローマ8:1)、どんなものも私たちを主の愛から切り離すことはできない(ローマ8:38-39)という偉大な真理をつかむのです。結局これこそ、ペテロとユダを分かつ違いであり、私たちが今日この御言葉を通してしっかりと把握すべき核心でもあります。そしてこのすべてのプロセスを通して、張ダビデ牧師は私たちに「主の深く驚くべき愛のうちに入り込み、徹底的に死んで再び生まれる重生の御業を必ず体験しなければならない」と訴えます。このような重生体験をするとき、私たちは日々の生活の中でも主へと立ち返る悔い改めと新たなスタートが可能になり、失敗や挫折を経験してもユダのように永遠に倒れ込む道ではなく、ペテロのように再び立ち上がる信仰の道を歩むことができるようになるのです。